I was not your verbena (3/3)


目覚めたキュラソーが最初にしたことは、風見の意識を刈り取ることだった。
都合つごうがいいことに、向こうから近付いて、キュラソーの肩を揺さぶってくれている。
片手を施錠しただけでは拘束されたうちにも入らない。地面から軽く飛び上がって、全身の遠心力をくわえた蹴りでキュラソーはあっさりと風見を気絶させた。
この男にそこまで恨みはないが、何をするにせよ公安の目は邪魔だ。組織の者たちが仕掛けてくるなら――キュラソーを取り戻そうとするならこのゴンドラの中だろう。手段は分からないが、キュラソーが再び観覧車を降りてくるのを待つようなヤツらではない。
その時に、公安と手を組んだと思われていると厄介なのだ。キュラソー自身だけではなく、少女の身の安全を関わってくる。
『見て』覚えた観覧車の構造を思い出す。逃走に必要な時間はおおよそ10分。頂上付近のゴンドラから、観覧車の外に出て東都水族館の混乱にまぎれるまでにかかる時間は10分だ。あとはどれだけ時間を稼げるかの勝負になる。
少女の方は、怖がらせてしまっただろうか。
振り向くと、目玉が零れそうなほどに大きく目を見開いた少女がキュラソーを見ていた。ぱち、ぱちと瞬きをして、気絶した風見を一度見下ろし、またキュラソーを見上げる。
無垢な眼差しには恐れ一つない。

「……キュラソー?大丈夫なの?」

なんだか間の抜けた問いだとキュラソーは笑いそうになった。

「ええ、大丈夫よ。もう大丈夫。記憶は戻ったわ。ちゃんと、貴方のことも覚えてる」

「あ、……よ、よかったぁ……。私、『原因』とかは分からなかったから、脳の病気とかだったらどうしよう、ってずっと……」

少女の目に残っていた涙が一筋こぼれ落ちた。それを少女はごしごしと手の甲で拭う。泣いてなどいなかったかのような朗らかな笑みを浮かべて、もう一度、良かった、と呟いた。
さあ、ここからだ。
盗聴されているかもわからないから、あまり詳しいことは話してあげられないが、彼女は着いてきてくれるだろうか。
気絶した風見の懐を漁り、スマートフォンを取り出す。暗記している番号を入力して、相手が出るのを待った。

『誰!?』

警戒したようなベルモットの声が聞こえてくる。キュラソーは微かに笑みを浮かべた。組織は常にこちらを見ている訳でもなく、盗聴もしていないようだ。朗報ろうほうだ。電話を切った後、少しだけ少女にこれからの作戦を話してあげられる。
少女は地面に座り込んだまま、きょとんとしているが、邪魔をしてはならないと思ったようだ。落ち着いた様子で、黙り込んでキュラソーの様子を見守っていてくれている。

「久しぶりね……ベルモット……」

『やはり記憶は戻っているようね……』

声だけで相手を察したようだ。ベルモットの声が少し和らぐ。翻意ほんいを悟られた様子もない。これならいくらか情報を引き出せそうだ。

「ええ……。それより、迎えはいつ来るのかしら?外には公安が山のようにいるようだけど……」

『問題ないわ……じきにジンが迎えに行くから……』

ジンか。
キュラソーは内心舌打ちをする。幹部の中で最も手段を選ばない男が来ている。同時に、少しおかしい気持ちにもなった。『本来の運命』がどうなっているのかは分からないが、今日キュラソーを殺せるとしたらきっとあの男だけだろう。考えてみれば当然だと笑い出しそうになる。

『ところで……いつ記憶が戻ったの?ラムに貴方のスマホから連絡があったと聞いたけど……』

心当たりのない話にキュラソーは目を瞬かせた。

『もしそれが貴方の送ったメールじゃないとしたら……』

そういえば壊れたスマホはどこに行ったんだったかと記憶を走らせる。
確か、あのコナンと言う少年が持っていったはずだ。幼い見た目からは想像もできないほどに利発な少年。今から考えてみれば、『キュラソー』に少し警戒も見せていた。隣にいた灰原という少女もなんだから誰かの面影を思わせる顔をしていた。
もし何かしたとしたらあの二人のどちらかだろう。
決断は早かった。

「あのメール?もちろん送り主は私……何か問題でも?」

どっち側につくかなんて、キュラソーはとっくに決めてしまっていた。スラスラと真っ赤な嘘を吐く。

『そう……』

ベルモットが怪しんでいる様子はない。彼らが何をしたかは分からないが、これで大丈夫だろう。

『それと、貴方の生き別れの妹を名乗る少女……観覧車に一緒に乗っているはずだけど……?』

「ええ、だけど妹ではないわ。貴方達が送ったんじゃないの?協力してもらったおかげでラムにもメールの続きを送れたわ……」

『……?おかしいわね、ラムからは何も聞いていないのだけど……でも、だとしたら彼は……ううん。良いわ。ひとまず戻ってきなさい。そろそろ時間よ、シンデレラ……』

カボチャの馬車むかえがすぐに来る。そう行ってベルモットは電話を切った。
キュラソーはふぅ、とため息を吐く。
使い終わった風見のスマートフォンは踏み潰して破壊した。これで良い。
ちらりと見てみると、少女は始終驚いた顔をしていた。声を出さないように両手で口を覆っているのがちょっとおもしろい。

「ごめんなさい、盗聴されているかもと思うと何も話せなくって」

「ううん、それはいいんだけど……」

「迎えがすぐに来るらしいの。早く逃げましょう」

「えっ、でも……」

「あそこはもう、私の帰る場所じゃあないわ……そこに貴方が連れて行かれたら危険だから……」

そっと手を差し伸べると、少女は不思議そうに瞬きをした。この子を守らなければいけない。ジンが来るのなら、命をかけてでも。それをこの少女は望まないだろうが……キュラソーがそうしたかった。彼女にはきちんと、帰る家があるのだから。
ふと、キュラソーは出会ったときの少女が持っていた紫のバーベナを思い出す。バーベナの別名をこの子は知っているだろうか。
小さな桜に似た美しいその形にちなんだ別名は『美女桜』。魔女の花とも言われるバーベナには不思議な魔力があると言われている。

「行きましょう。ねえ、ここから出たら…」

「?」

キュラソーの手を取って、立ち上がりながら不思議そうに見上げてくる少女。信頼しきった眼差しにキュラソーはなんだかくすぐったい気持ちになった。

「貴方の名前を聞きたいわ」

「……あれ!?そう言えば私、言ってなかったかも!?」

キュラソーがつい『桜』とこの少女呼んだしまったせいで、それが彼女の名だと子どもたちには間違えられていた。そのまま名乗るタイミングを逃していたのだろう。初めてその事実に気付いたように少女は驚いた。
こんなに変わらない物があっていいのだろうかとキュラソーはくすくすと笑った。

「私を信じて。絶対に手を離さいでいて」

「う、うん。絶対、離さない!」

少女を自分の首に抱きつかせて、ゴンドラの天井部分から脱出する。
使うことがなければいいが、念の為風見の拳銃は拝借はいしゃくしておいた。
観覧車のゴンドラから眼下を見下ろす。地面までおよそ100m。自由落下をすれば間違いなく助からないが、幸いと、観覧車のゴンドラは車軸に繋がっている。
行動は見つかる前に、素早く、だ。

「舌を絶対に噛まないように!!」

「え?え、えええええええええええ!?」

少女を抱きかかえたまま、キュラソーは夜闇の中に素早く身を投げ込んだ。
靴の摩擦まさつで速度を抑えながら、車軸を伝うように落ちていく。これが間違いなく最短コースだった。
落下しながら、水族館敷地内の灯りが急にすべて消える様が見えた。
突発的な停電。組織の者のしわざに違いない。
始まったのだ。


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