I was not your verbena (1/3)
風見、キュラソー、そして『サクラ』の少女。ゴンドラに乗り込んだ三人は静かにただ座って、観覧車の頂上にたどり着くのを待っている。
サクラはぼんやりとゴンドラの外の景色を窓越しに眺めている。深い物思いに沈んでいるようでありながら、彼女の目は何かの決意を強く宿している。
それをキュラソーは不思議な心地で眺めていた。足元が浮きだつように落ち着かないが、心は凪いでいる。
このゴンドラが頂上にたどり着く頃には、きっと何かが終わるだろう。そんな奇妙な確信がある。しかしその終わりを、今のキュラソーは恐れてはいなかった。
『貴方は……キュラソー?』
サクラが現れた瞬間のことが不意に思い出される。
彼女は言葉通り、突然キュラソーの前に現れた。目が覚めたばかりで、何も思い出せずに、見知らぬ光景に圧倒されていたばかりのキュラソーの目の前に、まるで魔法みたいに突然出現したのだ。
その時、キュラソーは驚いたんだったのだろうか。失われてしまった記憶の空白感に圧倒されていることに夢中で、その瞬間は何も考えていなかったかもしれない。
ただ、少女の手元に握られるバーベナの花束が珍しい気がして眺めていたことは覚えている。
彼女の全身から振りまかれる雨の匂い。それはまるで涙のような気配がして、どことなく目が離せない少女だった。現れ方が突然だったのもあって、初めは天使かもしれないとすら思った。人の魂をあるべきところまで運ぶ黒い天使――死神だ。
記憶がない割には、心のどこかで死神の来訪に納得してしまっていた。きっとここは地獄の入口なのだろうと、これから訪れる出来事を静かに待っていた。
だが死神だと思った少女はキュラソーを裁かず、詰ることもせず、ただあちこちにできた傷の心配をしてきた。
夜明けがじりじりと近付いてくる東都水族館の観覧車を背に、心配の眼差しでこちらに手を差し伸べてくる少女。彼女は呆然とするキュラソーを立たせて、一番近くのベンチまで連れて行った。東都水族館の入口にあるベンチに椅子にキュラソーを座らせたまま、コンビニで傷の手当するものを買ってくると駆け足で去っていた。
少女は立ち去る時に自分のスマートフォンを取り出そうとして、どこにも繋がらない事に気付いて困惑していた。諦めてスマートフォンを閉まったと思うと、そのまま辺りをキョロキョロと見回して手近な人間に片っ端から声をかけはじめて、何事かと思ったものだが、どうやら一番近いコンビニの場所を聞きまわっていたらしい。
それが彼女との出会い。
記憶を失った女に、キュラソーと言う名を与えた少女との出会いだ。
未だに彼女の正体は知れない。けれど、接している内に分かることもある。
彼女は普通の女の子だ。特別な訓練を受けたわけではなく、危険な世界に出入りしたこともない。帰る家も、家族もいる、普通の女の子。そして最近どこかで大事な人を無くしたことのある、寂しげな女の子。
きっと本当は、こんな記憶も怪しげな、公安に追われているような女と共にいるような少女ではない。……ましてや、ただ病院の廊下で座っているだけで狙撃されるようなことをしてきた子ではきっとないのだ。
なのに彼女はここまで着いてきた。離れるタイミングはいつでもあった。キュラソーと一緒にいなければ、刑事と事を構えることも、危険に怯えることもなかっただろう。狙撃のことだって、勿論。だけど彼女はどこまでもキュラソーのそばについてきた。生き別れの妹だなんて嘘までついて――そう、あれはきっと嘘だ。だって彼女はキュラソーとは異なる世界から来たって言っていたから。普通の女の子が刑事に対して堂々と嘘をつくことに、どれだけ恐怖を覚えただろう。
そして少女はまだここにいる。
それがとても不思議なことのようにキュラソーには思えた。
「貴方は。どうしてここまで来てくれたの?」
疑問がぽろりと口からこぼれ出る。
少女は顔を上げて目を見開いた。眼差しがどこか不安定に揺れる。
これが最後であることを、少女もどこか予感しているような、不安で寂しげな目をしていた。それでもキュラソーと目が合うと、少女は不器用に笑ってみせた。
「……最初は本当にたまたまだったの。ここに来てすぐキュラソーに会ったから。キュラソーのこと、もっと知りたいなって思って……ごめんなさい。最初はただの夢かと思っていたから……すごく気楽な気持ちだった」
いいえ、とキュラソーは否定する。
「貴方は最初から必死だった。まるで何かをつかもうとするみたいに……」
少女は目を見開いた。ああ、とキュラソーは少しだけ自分の言葉を後悔した。
「ごめんなさい、責めるつもりじゃなかったわ……。本当に気になって……貴方が心配で」
「………………私にキュラソーのことを教えてくれたのは幼馴染の男の子なの。ちょっと説明がややこしいんだけど、彼はキュラソーのことを一方的に知ってて。すごく綺麗で、強い人って褒めてて。私は彼の話を聞いて、ちょっと写真……みたいなものを見せてもらうだけだったの」
公安が扱いに困っているらしい、とある青年のことだろうとキュラソーは察する。
何故その男が自分のことを知っているのかと不思議に思うが、そもそも彼女たちはこことは違う世界の住人だ。そういうこともあるのだろう。少女は否定したけれど、やはり人の罪業を見守る天使のようなものなのかもしれない。
「それで、その子が居なくなって……その直後にキュラソーに会えたから、もしかしたら何か意味があるんじゃないかって。私はここで、するべきことがあるんじゃないか、って……その子に助けられた私が、キュラソーに何かを返さなきゃって……そう、思ってた」
うつむいてしまった少女に手を伸ばそうとするが届かない。片手はゴンドラ内部のポールに手錠でくくりつけられていた。キュラソーの動きを察した少女が自ら立ち上がってこちらに近付いてきた。
そっと、少女の頬に手をあてる。恐る恐る触れてみると、人の体温の温かみがした。少女は驚いた顔をしたけれど、ただ静かにキュラソーを見つめ返していた。
キュラソーはそっと声をひそめて、少女に囁いた。できれば風見に届かないように。
「……運命を変えるには代償がいる。死を覆すのなら尚更……」
薄っすらと、少女の態度を見ていれば分かることがある。確信はこの瞬間まではなかった。だが、少女の驚いた少女を見る限り、やはりそうだったのだと納得する。
少女はキュラソーの死の運命を知っているのだろう。それはきっと、遠い未来のことではなく、もっと近い未来の話。彼女の態度を見ていると、恐らくは今日中だ。
「私は何も覚えていない……だけど、私は貴方に代償を払ってもらうほどの、人間じゃあないことだけは分かっている。だから、大丈夫よ。大丈夫なの。このまま運命は覆されないままでいい」
「そんなの……」
「あるがままで良いわ。それは、理不尽な運命なんかじゃないもの。私は……たぶん、それだけのことをしてきた人間よ」
「違うの。キュラソー、私ね。今はもう、あんまり難しいことを考えられないの。ただ……ただ、キュラソーのそばに居たい。ずっと、この先もずっと。私、キュラソーと離れ離れになるのは……いつの間にか、すごく嫌になってた」
少女はまっすぐにキュラソーを見つめて言った。
「私、自分で望んでここまで来たよ。出来ることをしたいの。どんな結果になっても……何もしない事を後悔するよりは、ここにいたい」
「……そう」
暗い影なんて一つもない、真っ直ぐな少女の眼差しがキュラソーには眩しく見えた。
「でも、無理はしないでね」
「うん」
何か憑物が取れたかのように軽やかに少女は笑った。
頂上までもう少し。ゴンドラがてっぺんに届くまでの、この僅かな時間が名残惜しい。沈黙で埋めてしまうにはあまりにももったいなくて、キュラソーは訪ねた。
「貴方の幼馴染の子は、どんな子なの?」
少女は少しだけ目を輝かせた。何を話そうかしばし迷った後、くすくすと笑いながら顔を近づけてくる。
「見た目からは絶対想像つかない、とびっきりの秘密教えてあげる。折くんね、小さい頃から『ブルー』になりたいって、ずっと言ってたんだ」
「ブルー?」
「ふふっ、普通ね、戦隊モノのブルーの話だと思うじゃない?子どもだったし。だからレッドの方じゃないか聞いたんだけど……」
『レッドはやだ!火があつくて大変そう!』
少女の幼馴染の少年はそう答えた。曰く、燃えるところにいるのがレッドらしい。ならブルーは海にいるのかと少女が問いかけた。すると、少年は『ブルーはどこにでも居る』と答えた。どこにでも居て、町の平和を守っているのだと。
小さい頃の少女の頭には、戦隊モノのブルーがどの街角にも隠れていて、危ないことが起きると飛び出してくるような、不可思議な光景が広がっていた。そんなものがいるのかと首をかしげつつも、町の平和を守る、というところだけは彼らしい気がしたので、笑顔で少年の夢を応援したのだ。
『おれ、ヒーローになりたいんだ!』
それが幼い頃の少年の夢だった。
「随分と後から聞いてね。そのブルーって言うのが警察官のことだって分かったの。ふふっ、分かるわけないよね」
少女の楽しそうな様子につられて、キュラソーもつい笑ってしまった。
「じゃあ、レッドは消防士かしら?」
「うん、そうみたい。お巡りさんとか警察官って言葉はその時からちゃんと知ってたのに、わざわざブルーって言ったんだよ。警察官になりたい!ってはっきり言うのが恥ずかしかったみたい。ヒーローになりたい、ははっきり言えるのに」
「とても詳しく覚えているのね」
「……うん。その子は、いつも困っている人の前にふらって出てきて助けてくれるんだ。小さい頃から、私のヒーローみたいな人だった。魔法みたいに、良くわからない内にみんなを助けちゃってる、不思議なヒーロー。……だから。あいつに助けてもらった私が、ヒーローにならなきゃって……あいつの代わりに、私が……。そんなこと、できるわけないのにね。あいつみたいな、人を助ける魔法なんて、私には使えないのに」
「そんなことないわ」
キュラソーは少女の手をそっと取った。柔らかくて、傷一つない、普通の女の子の手だった。
ゴンドラが頂上に差し掛かる。
そろそろかとキュラソーは風見の方を見た。風見は少しだけ気まずげな顔で視線をそらして、何も聞いていないかのように素振りで窓の外を見ていた。
そんな風見に視線をやったときだった。
めきり、と頭が軋んだ。頭の中から頭蓋を割り裂かれているかのようなひどい痛みだった。今までの発作の中で一番重い。
「う、うぅ……うがああああああああ!!!」
「キュラソー!!!」
視界と脳内が白い光に塗りつぶされる。
『貴方が悪いのよ、キュラソー』
ああ、どうして忘れていたんだろう。記憶の奥底から聞こえてきた声に引っ張られるように、忘れていた記憶が乱暴に引っ張り出されていく。
そうだった。この体はとっくに、死んだようなものだったじゃないか。
←前のページへ / 次のページへ→
もくじ