トーチリリー・アロウズ (1/1)


放っておけるわけないじゃない、おバカさん。
はずむ息を抑えながら灰原は東都水族館の敷地に駆け込んだ。目には阿笠博士の家から持ち出した犯人追跡メガネをかけている。片手をメガネの縁に添わせて、望遠鏡ぼうえんきょう機能をオンにする。
探しているのは、一人で飛び出していってしまったあのバカだ。キュラソーのスマホの解析が完了するなり、いつものあの向う見ずで、ひたむきな表情で駆け出していった。
江戸川コナン――工藤新一。
あれだけ危険だと言い聞かせているのに、黒づくめの組織の手がかりを求めて行ってしまった。
ただ情報を求めてに行ったのではなく、組織の手によって脅かされている人たちの命を助けようとしていることが分かるからこそ、灰原の焦燥しょうそうは一層増した。脇目わきめもふらずに誰かを助けに行くこと。それができる人は、自分の保身を捨ててしまえる人だ。

『前にオメーに言ったよな……自分の運命からは逃げるなって……』

行くなと止める灰原に江戸川コナンを名乗る高校生探偵は言った。口元に真っ直ぐな笑みすら浮かべて見せて。

『俺も逃げたくねーんだよ……』

真っ直ぐな光を宿したその射抜かれて、灰原はそれ以上何も言うことができなかった。止めなければ、彼は自分の身もかえりみずに危険に飛び込んでいく。そう分かっていながらも、声が出ない。逃げたくないと不敵に笑うその姿こそが、工藤新一を工藤新一たらしめるものだと理解してしまったからだ。
運命から逃げたくない。
そう、きっと自分の運命から――謎に立ち向かう探偵のさがから命おしさに逃げる工藤新一はもはや別人。工藤新一だったものの抜け殻になってしまうだろう。
だけど。ねぇ、だけど、工藤くん。
その運命の先に自分の死が待っているとしても、貴方は逃げずに飛び込んでいくの?
それは嫌だと灰原の心が叫ぶ。
気付けば灰原はコナンの後を追いかけて東都水族館まで来てしまっていた。
軽くしゃがみこんで、息を整えてから顔をあげる。

「――え?」

そこに飛び込んできた光景に灰原は目を見開いた。
水族館全体に公安らしき者たちが集まってきている。騒然そうぜんとしているように感じたのは、来客者たちが大量の警察車両に動揺しているからのようだ。
嫌な予感がした。
慌てて江戸川コナンの姿を探す。追いついて、何をするつもりなのかわからないまま、焦燥感に後を押されて周囲を探る。
観覧車の方に視線がつい向いたのは、無意識のうちにキュラソーの発作のことを思い出したからだろう。夜の闇に飲まれた二輪式観覧車。その片側のゴンドラがすっかり空になっているのを見つけて、灰原は動揺を募らせる。

「どういうこと!?人が乗っていない……江戸川くんは……」

何かが起きているなら、彼もきっとその方向に居る。そんな気がして観覧車の方をつぶさに観察し始めた灰原は、ついにその姿を見つけた。
江戸川コナンではない。それはここにいないはずの者たちの姿だった。

「あ、あの子達!?なんで三人だけであんなとこに……!!」

あゆみ、光彦、元太。昼間には帰らせたはずの子どもたちが観覧車に背を向けてとぼとぼと歩いていた。
慌ててそちらに駆け寄る灰原。

「貴方達!!」

「えっ、灰原さん!?」

「哀ちゃん!」

「灰原、こんなとこでどうしたんだ?」

「こんなところでどうした、はこっちのセリフよ!三人だけで、こんな夜中にどうしたの?」

「灰原だって一人じゃねぇーかよぉ……」

元太がねたようにぼそぼそと言ったが、灰原はその反応を黙殺もくさつした。元々鋭い目つきを更に鋭いものにして、三人に問いかける。
子どもたちは示し合わせたように互いの顔を見合わせた。

「どうしたも何も……実は、観覧車に乗りに来たんですよ」

「でも乗れなかったんだー!なんか、カシキリ?だったんだって!」

昼頃には帰らさせられた子どもたちは不満だった。まだまだ遊び足りなかったし、何よりあのキレイなキュラソーお姉さんから、いけすかない刑事たちに引き離されたのが引っかかり続けていた。
その上、ひとまず博士の家にみんなで来たものの、博士本人はコナンに頼まれた何かをするために、作業場に引きこもってしまった。
つまり気持ちは沈んでいたし、退屈しきっていたのだ。
彼らのそんな様子は灰原も確かに見ていた。だが、灰原はその後、気疲きづかれのあまり少しうたた寝をしていた。起きたら子どもたちが居なくなっていたから、てっきりそれぞれの家の帰ったと思っていた。
しかし彼らは水族館で遊ぶことを諦めずに、何と鈴木園子に連絡して、観覧車に乗れないかと相談していた。園子は毛利蘭――江戸川コナンが今世話になっている毛利家の長女――の親友で、巨大財閥ざいばつの一人娘だ。
朗らかであけすけのない態度からは想像もつかないが、莫大な権力を持つ鈴木財閥の娘なのだ。東都水族館のスポンサーに鈴木財閥も入っており、子どもたちは特別に入れてもらえることになった。
スタッフに引き連れられて観覧車の前まで来たところで、子どもたちは貸し切りだと伝えられた。貸し切ったのが自分たちだと子どもたちは最初、疑わなかった。
さすが鈴木財閥だとご機嫌な子どもたちだったのだが、そんな彼らに声をかけてきた『変な兄ちゃん』がいたらしい。
今ひとつ要領を得ない話が続いたが、その『変な兄ちゃん』が貸し切りは公安の捜査のためだとスタッフに説明して、結局公安捜査の方が優先されることになったと言うことらしかった。
園子と蘭も一緒に水族館までは来たらしいのだが、スタッフに子どもたちを預けて、そのまま他の施設の方に向かっていったらしい。だから観覧車に結局乗れなくて帰ってきた三人は、子どもたちだけで夜道を歩くことになっていたとのことだった。

「……変な兄ちゃん?」

子どもたちを止めてくれたのはありがたいが、不審者ふしんしゃについて話すかのような口ぶりに灰原は眉をひそめる。
あゆみが両手で自分の目をぐっと広げて、大きな目を作る。

「おめめも髪の毛も真っ赤でね!悪魔さんみたいに目の下が真っ黒!すっっごく怖い人だったんだよ!!」

「でもいい人でしたね!」

「おう、お菓子くれたしな!」

「赤い目に赤い髪で、お菓子……」

それはどちらかというと、やはり不審人物の類なのではないだろうか。灰原は子どもたちが無事であることに安堵したものか、のんきな彼らの様子に呆れるべきかわからなくなった。
男が子どもたちに声をかけててきたのは、観覧車に乗る直前のことだったと言う。

『おねーちゃん、おにーちゃんたち。子どもだけでどこ行くの?』

わざわざ子どもの前にしゃがみこんで、柔らかな声で喋りかけてくる男に、むしろ子どもたちを連れていたスタッフの方がはじめは警戒を見せた。
しかし彼が何かを耳打ちするとスタッフは顔色を変えて、どこかに走っていってしまったと言う。もう一人のおろおろとするスタッフだけを残して、消えてしまった彼女はしばらく後に帰ってきて、慌てたように男に謝った。男は気にしたそぶりを見せずに、ただケラケラと笑っていた。

『こっちこそ、手帳見せられなくてごめんね。こういう格好してるのも、ちょっと事情があってさ。今のことは秘密にしてくれるとうれしーな』

言葉をそのまま素直に受け取れば、男は公安の者だったのだろう。変装している潜入捜査員と言ったところか。
だが、それにしては何か妙だと灰原は感じた。潜入捜査員が、子どもを止めるためだけにわざわざ自分の身分を明かしたりするだろうか。

「それにあの兄ちゃん、すごかったぞ!エスパーだったんだ!」

さらにうさんくさくなってきたと灰原は目を細めた。

『当ててあげよっか。君たちはこれからあの観覧車に乗るためにここに来たんだ』

見て通りの状況だ。
だが、もったいぶった口ぶりで言われればころりと騙される子どもたちの姿が目に浮かぶようだった。すごい、すごい、と子どもたちにもてはやされた赤髪の男はニヤリと笑って、なんと預言者を名乗った。少しだけ先の未来が読めるのだと。

『おにーさん、ちょっとだけ未来が見えるんだよね。この後、君たちが茶髪の女の子と一緒に居るところとか』

『もしかして哀ちゃん!?』

そのやり取りで子どもたちはすっかり男の言葉を信じ込んでしまった。
彼は素直な子どもたちに、観覧車には乗るべきではないと告げた。これからあそこの観覧車で良くないことが起こるから、今日乗らない方が良いと。真っ暗闇の中でゴンドラが止まってしまい、君たちはそこに閉じ込められてしまうから、と忠告したと言う。

『それに、大切なお友達とお別れしなくちゃいけなくなる。それは嫌だろう?』

『大切な、お友達……ま、まさか灰原さんですか!?ダメですっ!それは絶対ダメですよ!!』

友達が灰原であるとは、男は一言も言っていないのだが、子どもたちはすっかり騙されてしまったようだ。今日は乗らない方が良いと言う忠告に従って、仕方なく帰ってきたところで灰原に出くわしたということだ。

……それはコールド・リーディングじゃないかしら。
そう感じた灰原だが、子どもたちが観覧車に戻ると言い張っても困るため、口をつぐんだ。しかし頭の片隅では、子どもたちが騙されているのではないかと言う釈然しゃくぜんとした気持ちが渦巻いている。
『コールド・リーディング』。
即興そっきょうで人の心を読んだかのように見せる技だ。占い師が顧客の信用を使うために良く使うことで知られている。
ぴたりと事実を言い当てたように見えて、実は誰にでも当てはまるようなことを言って、当てたように見せかける技だ。
『貴方は、最近良くないことがありましたね?』と、そんな具合に。良くないことがあったか、と聞かれてまったくなかったと答える人はそうそう居ないだろう。けれども聞いた者のほとんどは、言ってない事を言い当てられたと、仕掛け人の思惑通りに感心してしまう。
しかし、疑う気持ちもありつつも、男が口にした『予言』が妙に具体的であったことが気にかかる。子どもたちを遠ざけるためなら、まったくの嘘でもかまわないのかもしれない。その場で嘘だとバレなければいいのだ。
けれど、何かが引っかかっていた。

「……いいえ、きっと考えすぎね……」

子どもたちを危険から引き離せたのだから、それで十分だ。

「とりあえず、ここから一回離れましょう。もう少し明るいところに移動して、蘭さんたちに迎えに来てもらって……」

バチン。
大きなスイッチが落ちるような音が響いて、灰原ははじかれたように顔をあげた。
異変はすぐに現れた。
まるで夜闇が施設中を飲み込んだかのように灯りが消えていく。二輪観覧車すらも軋む音を立てながら、静止した。
停電のようだった。
ピンポンパーン。灯りが落ちてしばらくすると、館内アナウンス開始のベルが鳴る。てっきり停電についてのアナウンスだと思っていた灰原は聞こえてきた、気の抜けるような声に目を見開いた。

『ぴんぽーん、ぱーん!こちら東都水族館の館内放送をジャックしてお伝えしておりまーす!』

「あれ、この声……」

あゆみが不思議そうにアナウンスの元を探すように辺りを見回した。

「さっきの兄ちゃんの声じゃねぇか、これ?」

「僕にもそう聞こえますね」

『これはテスト。これはテストです。三秒後に観覧車のゴンドラの一つと、この放送室が爆破されます。その30分後に、水族館のどこかに仕掛けられた爆弾が爆発します!鉄の雨、鉄の雨が降るでしょう。すみやかな避難をおすすめします。館内のみなさまスタッフさまがた何か集まってきてる刑事さんたちにすみやかな避難をオススメしーます!……はい。ぴーんぽんぱーんぽーん』

子どもたちは口々に、さっき会った男の声だとはしゃいでいる。だがはしゃいでいる場合じゃない。

――やっぱり不審者じゃない!!!

灰原は子どもたちを引きずるように連れて、急いで東都水族館から出る方向へと走り始めた。
止まっている方の観覧車から爆音から響いてきたのはそのほんの数秒後の出来事だった。


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