呪い歌のアトロパ・ベラドンナ (1/1)
病院の廊下はどこか不気味だ。
一人でいるならば尚更。
昼間の陽光が差し込むガラス窓がずらりと並ぶ白い廊下に不吉を感じるのは何故なのだろうか。狂いなく続く同じ光景の無機質さに、人間の気を触れさせうる何かを感じる。
もしくは、キュラソーが未だ目を覚ましていない心細さが見せるただの錯覚なのかもしれないけれど。
何にしたって、私にできるのは祈ることだけだ。
こうなるなら、『彼』の話をもっと良く聞いているべきだった。
『彼』の楽しそうな顔を見るのは好きだったけれど、『彼』の好きな女性の話だと思うと心がささくれだったから、深い話を聞いたことはなかった。バカバカしいことだけど、当時の私はただのキャラクターに過ぎない存在に嫉妬していたのだ。実在の人間相手ではなかったとしても、汚れた感情には報いが返ってくる。そんな因果応報をまざまざと見せつけられた気分だった。
おかげで私は、ただ彼女が近いうちに亡くなる、と言う事実しか分からないままでいる。
たった一日でこんなにも大きな存在になってしまった彼女を、どうやったら助けられるのかわからず、ただ未来への不安と絶望だけが降り積もる。ただの夢、だなんて笑い飛ばすにはもう心に芽生えた想いは大きすぎて。
たとえ夢だったとしても、キュラソーが死ぬところなんて見たくなかった。
あの透明な眼差しが、胸に痛くて、妙にくすぐったい。黒かった方の片目はカラーコンタクトが取れてから、尚更澄んだクリアブルーに変わってしまった。静かな眼差しがどこまでも見透かしてくるようだった。
それが、なんでだろうか。『彼』を少しだけ思わせるのだ。
色んな考えや感情が怒涛のように心を満たして、もみくちゃにしていく。頭の中がごちゃごちゃしていて、何を考えたら良いのかすらもわからなくなった。
――そんな私の思考を一発の銃弾が貫いた。
音は聞こえなかった。
けれど、それは確かに銃弾だった。
痛みはなかった。
その代わり、何故か、はっきりと小さな弾が頭を貫いている感触があった。頭蓋に小さな穴を開けながら、脳みそを貫く小さな弾丸の存在をはっきりと感じていた。比喩じゃない。気の所為でもない。
今、何かが私の頭を貫いていった。
「あ、れ……?」
脳が狂っている。
人が撃たれて生きているはずはないのに、弾丸で撃ち抜かれた後に窓ガラスが割れる音が響いた。グラスを地面に思いっきり叩きつけたみたいな大きな音。ひどい音。横目で見た窓ガラスに波紋状にヒビが広がっていく。
「おい!!大丈夫かっ!!今の音は――」
病室内から風見さんが飛び出してきた。私の方を見るなり、絶句して言葉を失う。
飛び散った窓ガラス。頭を抑えて、地面にうずくまる私。ガラスに開いたこぶりの穴は、弾丸にど真ん中を貫かれた蜘蛛の巣みたいだった。『弾丸に貫かれたみたいな』と言うのはおかしいのかもしれないけれど。私は今、間違いなく撃たれたのだから。
カラン、と弾丸が転がり落ちたような音がどこからが聞こえた気がした。そんな音、聞こえるはずなんてないのに。
「まさか、狙撃されたのか……!?おい、しっかりしろ!!クソッ、一体何が……」
肩を強引に掴まれて、無理やり顔を上げさせられた。目が合った風見さんは予想していたよりも、人間っぽい顔をしていた。
心配と動揺と、焦燥と。理不尽な現実に対する怒りみたいな動揺。
人が目の前で死んだ時、人間はこんな顔をするんだろうか。私はぼうっとそんなどうでもいいことを考えていた。
「意識は、あるのか……?おい、聞こえているなら返事をしろ!!傷は……」
髪の毛に無遠慮に触れながら傷口を探す他人の手。決して丁寧な手付きではないのに、嫌悪は感じなかった。他人にこんなにベタベタ触られたのは初めてかもなぁ、としか思えない。必死な風見さんの顔をしばらく見つめていると、やがて氷が溶けるみたいにゆっくりと指先の感覚が戻ってきた。
妙に色あせていた景色に現実感が戻ってきて、あ……と喉から自分の声が漏れる。耳の中で自分の声がぐわんぐわんと反響する。気持ちが悪い。でも、生きてる。
私、生きてる……?
「無事か……良かった……。気を確かに持て!説明しろ、一体何があった!?」
「あ……弾が……窓が、割れて……」
「大丈夫だ。大丈夫だから、落ち着け……深呼吸できるか?」
「呼吸……深呼吸……できる……息、吸える……」
吸ったら吐く。そんな単純な動作がひどくもどかしい。
だけど、風見さんに促されるがままに呼吸を繰り返しているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
大丈夫。私はちゃんと生きている。
はっと気付くと、キュラソーが病室の入口からこちらを覗いている。
良かった、目が覚めたんだ。
真っ白になった頭で、なんとかそんなことを考える。
「遠距離からの狙撃……まさか、本当に関係者だったのか……?」
風見さんが深刻そうに呟いた。
そんなはずはない。キュラソーと私は本当に今日が初対面で、血の繋がりなんてあるはずがない。妹を名乗ったのは、咄嗟の嘘だった。どうしてもキュラソーのそばに居たかったから、吐いた嘘。この世界で、彼女の未来を知っているただ一人の人間として、もがいてみせただけ。
「しゃがんで!!」
襲撃はまだ終わっていなかったらしい。キュラソーが突然叫んだ。
私はそれを、呆然と見ていた。驚愕に歪んだキュラソーの顔。必死にこっちに手を伸ばしている姿を見て、私は咄嗟に動いた。
キュラソーの方へ手をのばすことはしない。
ただ、駆け寄ってきていた風見さんを思いっきり突き飛ばした。
「なっ……!!」
衝撃はなかった。
窓ガラスが割れる音だけが聞こえる。壁にも穴が開く。私の頭の真横に、また蜘蛛の巣のようなひび割れが広がった。
痛みは、ない。そっと自分の頭に触れてみても、傷一つなかった。
「今……弾丸が貫通した……?い、いやまさか……」
見間違いだ、と風見さんが首を振る。
「いえ、今……間違いなく……」
キュラソーの顔も青ざめていた。
自分の両手を見下ろす。確かに私の体はここに存在していて、透けてなんかいない。なのに、銃弾は私を傷つけられなかった。
まるで神様が警告しているようだった。
私はこの世界の住人じゃないんだと。
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