似て非なるレモンバーベナティー (1/1)
……彼女の言葉を信じたわけじゃない。
風見は自分に言い聞かせる。
黒づくめの組織の幹部の一人が記憶を失ったかと思えば、タイミング良く生き別れの妹が現れただって?そんなこと、信じられるはずがない。見え透いた嘘に違いない。
……そう考えながらも、風見は結局サクラと呼ばれるその少女を一緒につれてきた。その理由は、彼女が口にしたとある男の名にあった。
公安で貸し切った観覧車の中に満ちる静けさ。
ゴンドラに揺られているのはキュラソー、サクラ、そして風見の三人だけ。キュラソーだけは、その危険性を鑑みて手錠で繋いである。彼女が警察庁に侵入した時に相対した風見は、キュラソーの身体能力の高さを身を持って体験していた。
記憶喪失とやらはどうやら真実らしいが、警戒はしておくに越したことはない。
これからキュラソーの記憶を取り戻しに行くのだから当然だ。
キュラソーが倒れた直前の話を聞いていると、どうにも観覧車が手がかりのように思えた。そこで彼女は記憶を取り戻しかけたのだ。なら、もう一度試してみる価値はある。
「さっき言っていた男の話だが」
沈黙が耐えきれなくなったわけではないが、時間をやや持て余した風見はサクラに声をかけた。うつむいていた少女が少し顔を上げる。口を真一文字に引き結んだ表情からは、何を考えているのか読み取れない。
「本当に、神崎折からキュラソーについて聞いたのか?」
「…………」
少女の顔がわずかに困惑で歪んだ。
「……彼を、知っているの?」
「同じ男について我々が話しているのかは分からないが……糸目で茶髪の、20歳前後の青年なら知っている」
「……どうして?」
今度こそ、少女は不思議そうな顔をした。
「……っ」
迷子の子どものような、頼りない表情に風見は虚を突かれた。何も返せないまま、マジマジと少女の顔を見つめ返す。
「折くんが刑事さんと知り合い……?どうして……」
少女は風見を見つめていながら、どこか別のところを眺めているようだった。知り合いではない、と風見は何故か言い出せないまま少女の様子を見守った。
「……やっぱりこれは、夢?でも、だけど……もし、そうじゃないなら。そうじゃ、ないなら……」
思考の渦に少女は沈んでいく。
これでは、これ以上話を聞き出せそうにない。『神崎折』の名を聞いてつい連れてきてしまったものの、この少女は今の所ただの一般人だ。今回の件には少なくとも関係ない。
――たとえ、キュラソーの生き別れの妹と言う見え透いた嘘が万に一つに真実だったとしても、だ。
今日の朝再開したばかりなら、昨夜のNOCリスト流出には関係ないだろう。犯罪者ではない相手に、流石に強引に出ることは出来ない。
風見は重い溜息を吐きそうになって、ぐっとこらえた。敵の前で弱った姿を見せるわけにはいかない。
あれもこれも『神崎折』のせいだと八つ当たり気味に心中でぼやく。
ほんの数時間にも風見は彼の名を電話越しに聞いていた。
『風見……ああ……そうだ……東都水族館だ……。もしもの時は構わん……頼んだぞ。気は抜くなよ……以前話した『参考人』もそこに居るはずだ……』
降谷――安室透として潜入任務に当たっている男から風見への連絡が入ったときのことだ。NOCリストを奪い去ったキュラソーを公安の威信にかけて探していたところだった。東都水族館にキュラソーらしき女性が居ることを降谷が探り当てたのだ。
流石は降谷さんだと風見が思ったのもつかの間、情報源があの『神崎折』だと聞かされて訝しんだ。
『ヤツ自身は、ただ伝言を頼まれただけだとシラを切っていたが……何もわからない相手に渡すには危険すぎる情報だ……今回も何かしらの関係者になっていると見ている……』
『罠と言う可能性は?』
『ないと信じたいな』
あまり普段の降谷らしくない言い回しだと風見は思った。
『だが早急に身柄を確保できるなら、行かない手はない……くれぐれも警戒しろ、風見……』
降谷と神崎折との確執について、風見は詳しいわけではない。降谷と同時期に組織に潜入していたとある男の死に、ある赤髪の男が関わっていると少し聞きかじっているばかりだ。
降谷が赤髪の男の行方を追っている中で、浮上してきた参考人の名が『神崎折』だった。逃走中の赤髪の男が警察の検問で止められた時に差し出した免許証に記してあったのが、その名前だったのだ。免許証自体は偽造であることが後ほど分かった。あくまでも名前を借りられただけである可能性が高い。
だが、ただの被害者であると断じるには奇妙な男だった。
車に轢かれて入院した以前の記録がどこを探しても見つからないのだ。本人も事故の後遺症で記憶を失っており、自供も取れない。
『神崎折』と言う名前が本当かどうかさえ確かめようがないのだ。
そして現れたタイミングも妙だった。入院先で降谷と出会った数日後に赤髪の男が再び現れたのだ。降谷の同期が亡くなってからずっと動きがなかったヤツが、急に、だ。
無関係だと考えるには、あまりにもタイミングが良さ過ぎた。
わざわざ降谷が潜入している喫茶店に来たかと思えば、アルバイトとして入り込んできたところも怪しい。降谷も当時は突如現れた後輩を随分と警戒しているようだった。
その警戒がどこか解けてきたように見え始めたのは、いつ頃だっただろうか。
『罠ではないと信じたい』。
元々、そんなことを気軽に言うはずの人ではないのだ。
その神崎折の個人的な知り合いだと主張する少女について、風見はすぐにでも降谷に伝えたい気持ちだった。だが、NOCリストがキュラソーに奪われた以上、状況は予断を許さない。組織の目がなくなったと確信できるまで連絡は出来ないと降谷に言われたばかりだった。
「…その彼は、貴方のバーベナなのかしら」
キュラソーがぽつりと謎めいた言葉をこぼす。風見は顔を上げた。キュラソーは静かな眼差しで少女を見つめている。大きな感情の揺らぎは見て取れないが、どこか気遣わしげな視線だった。
ぼんやりと考えにふけっていた少女がゆっくりとまばたきをしてキュラソーを見つめ返す。
少女の顔に戸惑いが浮かんだ。浮かび上がった戸惑いをそのままに、少女はゆっくりと頷く。
そう……、とキュラソーは呟くように言う。
「人は死んだ後に天国か地獄に行くと言うわ……なら、天国で亡くなった天使は……現世に来るのかもしれないわね……」
「天使?」
虚を突かれたように目を瞬かせる少女。しばらく口を開けて固まっていたかと思うと、静かにくすくすと笑いだした。
「やだ。折くんはそんなんじゃないよ。全然、ふふっ、天使とかじゃないって。まだ悪魔の方が近いかも」
「だって、貴方と同じところから来たのでしょう?」
「それは……」
奇妙な言葉だと風見は思った。だが口を挟めば二人は言葉を止めてしまいそうだった。戸惑いながらも静かにやり取りを見守る。
「そっか、あの時、私は本当に急に出てきたから……でも、天使なんかじゃないよ。ふふっ、キュラソーは、素敵な考え方をするんだね」
「そうかしら……分からないわ」
「変だって思わないの?私のこと」
「ううん、ちっとも。気にならない、って言った方が良いのかしら……貴方が本当は誰であっても、どうでもいい……貴方の気持ちはもうたくさん受け取ったから……」
「私、そんな大したことは……してないよ」
「そんなことないわ。与えた方にとっては大したことじゃあなくても……貰った方には宝物になることもある……そういうことなのね、きっと」
キュラソーの視線は暖かく、柔らかい。少女はその眼差しに困ったように眉尻を下げた。
がたり、とゴンドラが風に揺られて音を立てた。頂上が近い。
風の気配に風見が顔を上げる。
キュラソーから視線をそらしたのはたったの一瞬だったと思う。キュラソーが苦しみ始めたのはその一瞬だった。
「おっ、おいっ!!どうした!?」
「う、うぅ…っ!!うああああああっ!!」
「よせ!!落ち着くんだ!!」
あまりの苦しみように立ち上がって、慌てふためく風見。警戒のために構えたままだった銃口が揺らぐ。そんな風見の銃口とキュラソーの間に体をねじ込むように、少女が飛び出した。
「キュラソー!!また、発作が……っ!だから言ったのに!!」
暴れようとするキュラソーに少女が抱きつく。祈るような必死さでキュラソーを落ち着かせようとしている。
「早く、救急車を!!」
「あ、ああ……分かってる、今……」
キュラソーが苦しんでいる時間は短かった。しばらく唸り声を上げていたが、やがて電池が切れたように地面に倒れ込んだ。気絶したらしい。
少女がか細い腕でキュラソーを抱きとめる。
キュラソーの口元に手を当て、呼気を確認したところでようやく安堵の息を吐いた。だが心配は拭えない様子で唇を噛み締めた。
勢い良く顔をあげる少女の視線が風見を捉える。怒りをにじませた強烈な視線に風見はややたじろいだ。キュラソーの尋常ではない苦しみようを見た後の動揺が抜けていなかったからだ。
「もし……もし今、私がキュラソーを支えていなかったら」
少女は低い声で唸るように言った。
「貴方のこと、引っ叩いていました」
「………………」
「もし、今、貴方の頭にわずかでも後悔がよぎっていないのなら。……私は貴方とは……分かり合えない……」
少女の最後の一言は囁きのように小さくて、風見の耳には届かなかった。
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