リコリス・ラジアータの吐息 (1/1)
観覧車から降りるなり、キュラソーは医務室に運び込まれた。
気絶したまま目を覚まさないキュラソーの手をサクラが悲痛な表情で握っている。無くしたバーベナの花束の代わりに、キュラソーの手に縋っているかのようだった。
医者の見立てでは命に別状はないらしいが、それでもなおサクラの不安は拭いされないほどに大きなものだった。
その様子をコナンはじっと静かに観察していた。
思い出されるのは観覧車内でのキュラソーの様子だ。ひどい頭痛に苦しみながら、うわ言のように呟いた言葉。
その意味の重大性に気付いた灰原の青ざめきった顔が忘れられない。
『NOCはキール、バーボン、スタウト、アクアビット、リースリング』
道理で、赤井が動いているはずだった。
どれも酒の名前であるだけでない。キールとバーボンはコナンにとっても良く知った名前だった。二人とも黒づくめの組織に潜入しているNOC――潜入捜査官である。
その事実をキュラソーが知っている、その意味は。
つい主語も詳細もない端的なメールを神崎に送ってしまった。
『知ってたの?』
『うん。ヤバイよね!!!』
即座に返ってきた返事。
こう、なんだろうか。こういうところ。こういうところなのだ。ポアロで安室が頭を抱えている気持ちが良く分かる。
神崎からキュラソーについて連絡を受けた安室は一体どんな顔をしていのだろうか。見ては居ないが、きっと深いため息を吐いていたのではないだろうか。
駆けつけてきた公安警察の刑事たちを見ながらコナンはそんなことを思った。
予定通り『公安』が来たから子どもたちは帰らせた。灰原もようやくホッとできた顔で立ち去った。阿笠博士にはキュラソーのスマホを渡しつつ、コナンから一つ『お願いごと』を託した。
最終的に、キュラソーのそばに残ったのはコナンとサクラだけだ。
「先程お話した通り、彼女の身柄は公安で保護させていただきます」
風見と名乗った刑事が警察手帳を見せながら、医者に話している。医者の方も心得たように頷いた。
「それは構いませんが、一つお伝えしておきたいことがありまして……」
そう前置きしてから、医者は驚くべきことを語った。キュラソーの記憶喪失は昨夜の事故で受けた頭部への強い衝撃か原因で間違いはない。
しかし、それとは関係ない損傷――恐らくは生まれつきのもの――が彼女の脳弓には存在しているらしい。日常生活には支障はないもののため、今回の記憶喪失には関係ないはずだが、念の為知っておいて欲しいとのことだった。
コナンはキュラソーが持っていた五色のフィルムをそっと取り出した。観覧車から降りてから、ずっとそのフィルムが頭の片隅に引っかかっているのだ。何か、それに良く似たものを見たような気がしている。それはきっと、失われたはずのキュラソーの記憶が揺さぶられたことと無関係ではないだろう。
だが、一体何が引っかかったのかが思い出せないでいる。
「連れて行くってどういうことですか!!」
思考に沈んでいたコナンは、サクラの叫びによって現実に引き戻された。
険しい表情のまま、風見に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄っている。それなりに身長のある、無表情な男から見下されればそれなりの圧迫感があるはずなのに、全てをはねのけるような威圧感すら放ちながらサクラは風見に食って掛かっている。
「彼女は病人なんですよ!それも、脳にもしかしたらひどい傷を負っているかもしれない!」
「君は、先程の医者の話を聞いていなかったのか?」
風見は淡々とサクラを見下ろす。
「彼女の命に別状はない。彼女は、とある事件の重要参考人だ。真実を明らかにするためにも調査が必要だ」
「だからと言って、目が覚めたらすぐにこのまま現場に連れて行くなんて!!」
「これは決定事項だ」
「その手で……」
それは地を這う呪詛のような低い声だった。
うつむいて唇を噛む動作。それが何かのスイッチだったかのように、勢いよく顔を上げたサクラがキッと風見を睨む。
「捜査の名目で、もし彼女を殺してしまったら。そしたら責任が取れるんですか。……それが、貴方にできるって言うの?」
「当然だ。公安警察としてすべき事は――」
「取れないわ」
風見を遮る彼女の声は驚くほど響いた。静かな声なので、胸を貫くナイフのように鋭い。
「人の死に誰も責任なんて取れない。出来るのは、過去への後悔を募らせるだけ。失われた未来に対して、取れる責任なんてない……正義の名でさえも。そんなことできない」
振り乱した長髪の隙間から覗く、ぞっとするほどの空虚な瞳。その眼差しのおどろおどろしさに驚きながらも、コナンは妙な違和感に気付く。
もし、と言いながらもサクラの言葉には確信が満ちていた。自分の理念に対する確信ではない。たぶん、この言い方は。
キュラソーの死に対する確信だ。
「小さな桜ちゃん……私は大丈夫よ……」
「キュラソー!!」
キュラソーが目を覚ましたらしい。ベッドの横たわったまま、顔だけをサクラに向けて静かに語りかけている。
そんなキュラソーにサクラは抱きつく勢いで飛びついた。
「大丈夫?頭は痛くない?違和感とかは……」
「大丈夫。大丈夫よ。今は全然大丈夫なの……ごめんさい、心配をかけたわ」
「ううん、ううん……」
キュラソーの指がサクラの目元までそっと伸ばされた。うっすら少女の目元に溜まっていた涙粒が優しく拭われた。
「――彼女は無事だ。もう分かっただろう。良いから、そこをどきなさい」
「……ダメです。せめて、大きな病院でちゃんと検査を受けてからにしてください」
「そこまで言う君は何者なんだ」
少し苛立った様子で風見が問いかける。埒のあかない押し問答に焦れてきたようだった。
「ただの一般人に、首を突っ込む資格はない。彼女と君は、今日出会ったばかりの他人だろう」
「いいえ」
驚くほどはっきりとサクラは答えた。言い切ってから、不安そうに眉根を寄せてうつむく。いいえ、と小さな声でもう一度繰り返した。
「……いいえ。私は…………」
躊躇う唇。でもそれは一瞬ことだった。次に顔を上げたときには、覚悟が灯火のように少女の目の奥で揺れていた。
「私は、キュラソーの生き別れの妹よ」
「…………え?」
予想もしていなかった言葉にその場の全員が固まった。
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