笑うコルチカム (1/2)


この不思議な夢の中で出会った子どもたちのうち、コナンと言う少年と、灰原哀と呼ばれる少女は観覧車の待機列までついてこなかった。
子ども二人だけで大丈夫なのか少しばかり気になったけれど、あゆみちゃんたちは気にしていない様子だった。
いわく、いつものことなのだとか。事件とかが起きると勝手に走っていってしまうし、そうじゃなくても気になったことがあるとふらりと姿を消してしまう。
それで良いのかと保護者役であるはずの阿笠さんに訪ねてみると、自信満々じしんまんまんに『大丈夫』との答えが返ってきた。子どもたちも、コナンくんや哀ちゃんの方が博士よりしっかりしていると同意した。
二人ともものすごーく頭が良いんだよ!と目を輝かせたあゆみちゃんが教えてくれた。

「まるで、主人公みたいだね」

自分の口からなんとはなしに出てきた言葉が、妙にしっくりとくる。もしかしたら本当にそうなのかもしれない。『コナン』と言う名前を聞いた時に、どことなく懐かしさを感じたのも気の所為ではなかったのかも。
だってここは、漫画の世界の中だ。自分のよく知らない漫画の夢を見ているのは不思議な心地だったが、不思議な安心感があった。『彼』が好きだと言ってたキャラクターの隣に立っているからかもしれない。

「……?」

ふとキュラソーが不思議そうに辺りを見回した。

「どうしたの?」

「いえ……誰かに声をかけられたような気がして……でも私の勘違いだったみたい…」

「そっか……」

気になって、キュラソーと同じように辺りを見回してみる。けれども、彼女の知り合いらしき人物は見当たらなかった。当然だ。私は彼女の名前しか知らないに等しいのだから。知り合いが居たところで、見分けられるはずもない。

「サクラお姉さん!キュラソーお姉さん!!こっちですよー!」

光彦くんが少し離れたところから呼んでいる。すっかり私の名前は『桜』で定着ていちゃくしてしまった。強く否定するほどのことじゃないし、どうせ夢の中だからとそのままにしている。
それに、別の誰かになれた気がして、少しだけ気が楽だった。桜と聞くと、憧れを強く思い出す。そんなあこがれの存在にちょっとだけ近づけたような錯覚さっかくおちいるのだ。

「おーい!!コナーン!!灰原ーっ!!」

元太くんの大声にはっと顔をあげる。どうやらあの二人が合流しに来たらしい。上へ、上へと伸びていく待機列のてっぺん付近から下を見下ろすと、二人の子どもの小さな影が見えた。子どもたち三人が大きく手を振って、二人を呼び寄せようとしている。
随分と離れてしまったけれど、ちゃんと合流できるだろうか。
そんなことが心配になって一緒に覗き込もうとしたところで、鋭い声に身が縮んだ。

「危ないっ!!元太!戻れ!!」

え、と反射的に元太くんの方を見る。コナンくんが叫んだのだと理解する前に、手すりから乗り出した元太くんの姿に心臓が凍りついた。ゆらりと元太くんの体が揺れて、手すりを乗り越えて、下に落ちていく。
その光景はやけにゆっくりとして見えた。
元太くんの頭が手すりの裏に隠れる。つま先がぴんと張った両足が地面から浮いて、手すりの裏側に引き込まれるように、ゆっくりと下に消えていく。
そのまま落ちれば、遠く離れた水面・・に飲み込まれる。荒波あらなみに飲まれた体は二度と帰ってこなかった。
私があの時、手を伸ばさなかったから。
そのまま落ちれば助からないと分かっていたのに、動けずにいたから。
そんな後悔が、絶望が、私を走らせた。私の背中を蹴り飛ばした。気付けば私は地面を蹴って、元太くんに抱きつくように飛びかかっていた。
自分にそんな俊敏しゅんびんな動きができるとは思っていなかった。どうやったのかも分からない。
頭が真っ白に、ってこういうことなのかもしれない。
一瞬の意識の空隙くうげきがあって、その間に私はずり落ちそうになっている元太くんを手すりから引き剥がしていた。
元太くんは驚いた表情のまま固まっている。
……大丈夫、落ちていない。元太くんはよろめいただけで、手すりから落ちてなどいない。落下していったように見えたのは、私の後悔が見せた幻覚だった。

「……元太くん、大丈夫?」

「お、おう。姉ちゃんありがとう……」

まだ呆然としている元太くんに声をかけると、こくこくと激しい頷きが返ってくる。怪我もないらしい。本当に良かった。
隣で凍りついていたあゆみちゃんと光彦くんも大きく安堵のため息を吐いた。阿笠さんも胸をなでおろす。キュラソーは良かった、と呟いて私に微笑みかけた。
良かった。
……本当に良かった。

「もうっ。危ないから手すりは乗り出しちゃダメだよ、元太くん」

「うっ……はーい……」

ようやく安堵あんどの息がこぼれた。元太くんをしっかり立たせて、私自身も立ち上がる。子どもたちを安心させるために微笑みかけながら、ワンピースのすそを後ろ手で掴んだ。
そうしなければ、笑みが引きつってしまいそうだった。
膝が痛い。まるで擦りむいてしまったみたいに、ヒリヒリと痛む。今の騒動そうどうで擦ってしまったんだろうか。さっきも転んだし、本当に気をつけなくっちゃ。

「…………え?」

そう思いながらこっそりとワンピースの裾を持ち上げて確認すると、膝にかさぶた・・・・ができていた。てっきり真新しい擦り傷があると思っていたのに、と思考が固まる。
このかさぶたの位置は、待機列に並ぶ直前に転んで地面に擦り付けたところだ。
さっきまで何もなかったはずなのに、どうしてなんだろうか。
その時はただ気付かなかっただけだと自分に言い聞かせながらも、嫌な違和感が胸にこみ上げる。
その痛みは、夢にしてはあまりにも生々しい。

――ここは本当に、夢の中なんだろうか?

先程までは存在してなかったはずの、膝にこびついた乾いた血が更に私の不安を煽り立てた。


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