レッドカラントの誘惑 (1/2)
東都水族館のエントランスで、魂を抜かれてしまったみたいにぼうっとベンチに座っている女性。プラチナブロンドの端正な顔立ちの彼女に、はじめに声をかけたのはコナンだった。
「ねえねえ大丈夫?」
傷だらけの女性に向けられた、子どもらしい無垢な気遣いだった。だがその観察眼は鋭く彼女の全身に向けられている。
頬についた汚れ、手足についた擦り傷、ベンチの上の割れたスマートフォン。日本人離れした、黒と青のオッドアイも目を引く。物珍しいと言う意味ではなく、明らかに外国人である彼女が呆けた状態で一人放置されているこの状況が、コナンの目を引いた。
何かしらの事件の臭いがしたのだ。
日本語は通じるものの、話しているとどうにも様子がおかしいことが分かってくる。直前まで何をしていたのか記憶がないと言うのだ。それだけではなく、自分自身の過去について、何一つ覚えていない様子だった。逆行性健忘――記憶喪失だ。頭部にある真新しい傷が原因のように見える。
かすかに漂うガソリンの臭いと、砕けたフロントグラスの破片を見るに、車に乗っていて負った傷だ。そういえば昨夜、大規模な交通事故があったとニュースで言っていた。詳細がいくら待っても出てこなくて、妙だと感じていたあの事故に何か関係しているのだろうか。
コナンと女性の様子を見て、離れたところにいた灰原も近付いてくる。灰原も同じ、何か物騒な事情の気配を感じたのだろう。コナンが目配せをすると、心得たように灰原も頷く。彼女も、この女性が記憶喪失だと判断したらしい。
「お姉さん、名前は?」
「名前……?」
コナンの問いかけにぼうっとした様子で呟く女性。予想もしなかった問いかけをされたかのように、正体無さげに表情が揺らぐ。不安がっていると言うには、いささか空虚すぎる表情だった。
「私は……」
しかしコナンと灰原の予想に反して、女性ははっきりと自分の名を名乗った。
「私はキュラソー……」
「「!?」」
「私は、キュラソー。たぶん、キュラソー……」
その名に驚愕の表情を浮かべたコナンと灰原。二人の反応に気付いていない様子で、キュラソーと名乗った女性は自分の名前を繰り返した。まるで聞き覚えのない単語を何度も口にして確かめるかのような、奇妙な口ぶりだった。
酒にちなんだ名前がどれほどコナンと灰原を動揺させたのか、気付いてさえもいない素振りだ。
「たぶん、って……どうして、たぶんなの?」
慎重さと鋭さを増したコナンの問い。それに対してもキュラソーは変わらずにぼんやりとしていた。
「それは……ごめんなさい。名前も、覚えていないの。だけど……教えてくれた人がいたから……」
「教えてくれた人?」
「ええ。小さな桜……サクラの女の子が…」
「それってどんな……!」
「江戸川くん」
さらに詰め寄ろうとしたコナンを灰原が止めた。華奢な腕からは想像もできない強い力でコナンの肩を掴み、引き戻す。そして首を横に振る。これ以上は危険だ、と言うサインだ。止める灰原の表情には恐れと必死さがあった。
キュラソーはやはり二人の表情の変化にも気付かずに、ぽつりぽつりと話し続けた。
「不思議な子だったの……魔女のようで……でもとても優しい人よ……。だからきっと、あの子は……まるで……」
天使。
熱に浮かされたように呟かれるメルヘンな単語にコナンは目を細めた。一体、何を意味しているのだろうかと。この記憶喪失の女性をキュラソーと呼んだのは一体誰なのかを。
その答えはコナンの背後からすぐに現れた。
「あ……」
人の気配を感じてコナンが振り向くと、そこには一人の女性が立っていた。少女と呼べるほどの若い女性だ。高校生か、大学生か。長い髪を几帳面にくくった、真面目そうな女性だった。
そして――黒い。
エナメルの黒靴が朗らかな陽光に照らされている様は不自然なほどだった。シンプルな装いのワンピースもカラスの羽で織ったかのような濡羽の黒。更には同じ色の手袋。全身をまとう服の黒さに髪色が負けて、少し茶けた色であるように見えた。
首元に下げられた数珠つなぎのパールだけが白い。彼女が纏っているのは喪服だ。水族館前に喪服を着た少女が立っている。
彼女の背後に大観覧車がそびえているのが滑稽なほど、この場にそぐわない格好をした少女だった。
少女は驚いたような表情でベンチに座るキュラソーと、コナン、そして灰原を見比べている。不安をごまかすかのように、少女が手元に握ったバーベナの花束を縋るように握る。花束のラッピング材がくしゃりと音を立てた。
とある組織を連想させる装いに思わずコナンは身を固くする。しかし、紫一色のバーベナを花束に握った少女の、その不可思議さに対する興味の方が最終的には上回った。
少女から漂う『ある匂い』が小さな名探偵の気を引いたのだ。熱されたアスファルトの上で溶けたタイヤが放ちそうな、この独特な香りは『ペトリコール』だ。察した瞬間、コナンは思わず頭上を振り仰ぐ。
そこには雲ひとつない晴天が広がっていた。
「お姉さんは、キュラソーお姉さんのお友達?」
無垢な子どものように笑って、喪服の少女にコナンは訪ねかけた。
少女は横に首を振ってなぜか、困ったような顔をした。
「もしかしたら君たちが『キュラソー』の知り合いかなって思ったんだけど……そっかぁ、違うんだね」
妙な言い方だとコナンは思った。まるで言い慣れていない名前を言うかのような、少し舌っ足らずな呼び方。そしてキュラソーと出会ったばかりであるかのような口ぶり。彼女自身がキュラソーに名前を与えた本人であるはずなのに。
コナンの不思議そうな顔に気付いた少女は、やはり少し困ったように微笑んだ。
「キュラソーは記憶喪失らしくって……。怪我してたからとりあえず座れるところまで連れてきたんだけど……あ、そうだ。絆創膏とか、包帯とかコンビニにあったから、えっと。あんまり上手じゃないけど、良い?」
キュラソーの前にしゃがみこんだ少女。両手に握っていたバーベナの花束を一度ベンチに起き、右手にぶらさげたビニール袋をあさり始める。キュラソーが拒否しないのを見ると、慎重な手付きで怪我の手当をし始める。
擦り傷に絆創膏を使うべきか、ガーゼを使うべきか、傷の大きさと見比べながら迷う様子は、手当に慣れているようには見えなかった。
「頭を打ってるかもしれないから、病院に行った方が良いと思うよ。それにもし交通事故に巻き込まれたなら、昨日の大規模な事故に関係あるかも。警察に行ったほうが……」
「昨日の事故?そうだったんだ……じゃあその事故にもしかして巻き込まれて……。でも……キュラソーはやっぱり、病院も警察も嫌?」
キュラソーがはっきりと頷いた。強い拒絶にコナンと灰原も驚く。
「本人が嫌がるなら連れていけないよ。何があったのか、わからないんだから……」
少女は困ったように微笑んだ。そのままキュラソーの傷の手当を始める。不慣れながらも、消毒液を含ませたハンカチで傷口を拭う手付きは優しかった。
少女の手当をしばらく見守っていたコナンは、思いついたように一歩前に進み出た。彼の肩を掴んだままだった灰原の手が困惑で緩み、するりと落ちる。
「僕、授業で傷の手当したことあるんだ!やってあげよっか?」
得意げな笑みを浮かべて胸を張る少年に、少女は目を見開いた。すごいね、と小さく呟いた声にはなんの含みもないように聞こえる。
「最近の小学生ってすごいんだね……うん。ふふ、君の方が上手かもしれないからお願いしていい?私、怪我の手当とかやったことなくて……保健室で擦り傷に絆創膏貼るくらいしか、やったことないんだ」
破顔した彼女の笑顔は屈託がなくて、ひまわりのように暖かだった。
「……お姉さんは、どうしてサクラのお姉さんなの?」
そういえばキュラソーが彼女を『小さな桜』と形容していたことを思い出すコナン。なんとはなしの問いかけに、少女は目を瞬かせた。
「え?いえ、私は……」
「お姉さん、サクラお姉さんって言うの?ねえねえ、そっちのお姉さんは?」
「あゆみ……」
コナンと灰原が見知らぬ女性と話していることに気付いた子どもたちが集まってきた。あゆみ、光彦、元太の三人。江戸川コナンと灰原哀の同級生だ。少年探偵団を自称する彼らは無鉄砲に事件に首をつっこむ癖がある。普段は微笑ましく見守っている灰原だが、今回ばかりは危険すぎると三人を止めようとした。黒づくめの組織相手に、子どもたちを巻き込んではならない。
「こっちに来ちゃダメ!!」
えっ、と驚く子どもたちに更に言い募ろうと、灰原は深く息を吸う。しかし灰原が何か言う前に、今度はコナンが彼女の腕を掴んで止めた。ゆっくりと首を横に振って、灰原の行動を否定する。
「ダメだ。変に警戒したら逆に怪しまれる……本当に記憶喪失の可能性だってあるし……」
「だからって、このまま子どもたちと彼女を一緒にするわけには行かないでしょ…!」
「わあってるよ。ちゃんと対応できそうな人に連絡はするから……」
そう言いながら、おもむろにスマートフォンを取り出したコナン。少し背伸びをして、構えたスマホのシャッターを切る。撮影される寸前にカメラの方を向いたキュラソーの驚いた顔がスマホの画面いっぱいに保存された。そのままメールに写真を添付して送信する。宛先は沖矢昴。そしてもう一人――神崎折だ。
突然の撮影だったが、えへへ、と無邪気に笑うコナンの笑顔にキュラソーたちはごまかされたようだった。喪服をまとった少女の方は、微笑ましげにくすくすと笑う。子どもが無邪気にカメラを振り回しただけだと判断したのだろう。
悪い人には見えないんだよな。コナンは少女に対して率直にそんな感想を抱いた。無邪気で、穏やかで、普通の学生のように見えた。それだけに服装の異様さが目立つ。
「これこれ!いきなり写真を撮るなんて……」
「博士」
子どもたちを引率していた阿笠博士が困ったようにコナンをたしなめた。
今日は子どもたちと一緒にリニューアルオープンの東都水族館で遊ぶ予定だった。先程まで、リニューアルしたばかりの水族館に行くか、できたてほやほやの新目玉である二輪式大観覧車に乗るかを相談していたはずだが、子どもたちの興味はすっかり見知らぬ女性に移ってしまったようだった。プラチナブロンドにオッドアイという珍しい見た目さながら、記憶を失っているというミステリアスさにすぐさま引き込まれたのだろう。
自分たちがキュラソーの知り合いが付近にいないか探して、記憶を取り戻す手伝いをすると意気込んでいる。さりげなく阻止することはできそうにない。
「江戸川くん……!」
灰原が焦ったようにコナンをせっつく。わかっているとばかりに頷くコナン。
「あの女性がどうかしたのかの?」
コナンと灰原の緊迫した気配の理由がわからないでいる阿笠博士。コナンはぐっと声をひそめて、博士の耳元で囁いた。
「彼女の名前だ……キュラソー、つってた。キュラソーはオレンジの皮と使ったリキュールの一種の名前だよ。ジンやベルモットと同じ、酒の名前だ……」
「!」
事の重大性に気付いた博士の表情が凍った。
説明しながら、コナンは自分の手元に視線を落とした。キュラソーが持っていたたった二つの所持品が握られている。
壊れたスマホと、謎の五色のフィルムだ。五色のフィルムは、学生が使う単語暗記帳のように一つのリングで縦長の形に束ねられている。ブルーキュラソー。ホワイトキュラソー。オレンジキュラソー。キュラソーは色のバリエーションに富んだ酒だ。用途の分からないこのフィルムが、彼女の名前をまるで暗示しているかのようだった。
「今、キュラソーの正体に心当たりがありそうな人に今聞いてみてる……」
「キュラソーだけじゃないわ!彼女の名前を知っていたあの女性だって……あの黒い服……彼らと同じかもしれない」
「いや、それは……」
灰原の言葉にコナンは顔をあげた。
「どうか、な……?」
顔をあげた体勢のまま、驚愕に見開かれるコナンの目。何事かと視線の先を追った灰原も、あっ、と声をあげる。
「あ、あいつら勝手に……!」
いつの間にだろうか。
子どもたちがキュラソーと少女を連れて、記憶探しの旅に出発してしまっていた。
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