きみをぼくが殺すという覚悟 (1/7)
……。
…………名も知らぬ男がぽつりと一人で立っていた。
元より人通りの少ない路地裏に月影が落ちる。じきに日付が変わる。
喫茶店ポアロの裏口からゴミ捨て場に向かっていた安室は急ぎばやにその男の横を通り抜けた。 生き物の気配が絶えた袋小路で不審な男と二人きりでいると、言いようのない居心地の悪さがこみあがってくる。
帽子を目深に被ったその男の素顔を暴いてみたい気はしたが、好奇心を押し殺して無関心を装う。一般人としては気味悪がるのが正しい対処だろう。ましてや、黒の組織に潜入している調査官という身分ではそうそう目立つ真似をするわけにもいかない。
通りすぎた男からほのかな香りが漂う。どこかで嗅いだ覚えのあるシトラスと木香の入り交じった匂いだった。
何の香水だったか。漫然と記憶を探っていると、香り以上に何かを呼び起こさせる声が安室の耳に飛び込んだ。
「こんばんは、安室おにーさん」
忘れもしないふざけた声。揶揄しているのか、馬鹿にしているのか、妙に間延びした語尾が耳につく。
「!!」
慌てて安室が振り向いても男は身動ぎすらしない。ただすっとぼけた態度で空を見上げているだけだ。
左手をポケットに突っ込んで左肩を下げた独特の立ち姿。
あの廃屋で見つけたシルエットに妙に良く似ている。
死んだはずでは、と疑う半面、どこかで腑にも落ちてしまう。あんなイカれたタチの悪い男が簡単に死ぬわけがない。
黒い帽子の影から生々しい火傷の痕が覗いていた。
「…………生きていたんですね」
「ああ、喜んでくれるんだ。俺もおにーさんに会いたかったよ」
「ええ、貴方には聞きたいことが山ほどある……」
安室は持っていたゴミ袋を一度地面に落とした。
両手が塞がった状態で対峙したい相手ではない。なにせ相手は言動が読めない殺人鬼だ。
黒の組織の幹部であったカーディナルのみならず、潜入捜査員であるスコッチすらも殺した男はどうにも安室に執着を見せていた。何をされるかわかったものではない。
「いいよ、聞きたいこと聞いて。俺もおにーさんに話して欲しいことがあるんだ。お話ししよう」
男が何気ない動作で振り向く。黒帽の下にある二対の不気味な目が安室に向けられた。
隈だろうか、アイシャドウだろうか。男のその黒く縁取られた目に見つめられると、安室の背筋は自然と伸びてしまう。身構えざるをえないような何か不気味な感情が掻き立てられるような目付きだった。
「こんなところで長話でもするつもりですか?」
「うん。だから、車で来たんだ」
男が表通りに繋がる道を顎で示す。
「人を殺せる男と二人きりになるのは避けたいですね……」
「今みたいに?」
「逃げ場のない車内で、今みたいに……ですよ……」
「あはは、殺されるかもしれないしな?」
あっさりと男は話の核心を突いてみせた。
冗談めかした口調で。しかし獲物を狙うような目付きで、安室を捉える。
数年前の邂逅で感じた安室への妙な執着は未だ健在のようだった。理由のわからない執心に安室は目元を強張らせた。
この男が『バーボン』を求めたせいでスコッチは――
――未だ心をざわつかせる同僚の死の記憶をそっと心の奥底に納めなおす安室。
今は動揺している場合ではない。
「情報を吐くまで痛めつけられるのもごめんだ」
「安心してよ、俺そういう趣味ないから」
「どうでしょうね……」
「俺ってば随分と誤解されちゃってるなぁ」
男が急にしゃがみこんだせいで目元がまた隠れてしまう。
何をするつもりかと身構える安室の予想に反して、男はただ地面に落ちていたポリ袋を拾い上げただけだった。
黒いレザーの手袋に包まれた男の指がゴミ袋の縛り口をしっかりと握りしめる。
「なにを……」
「そもそも、おにーさんから聞き出したい情報なんて……何もないんだけどな?」
ガタン、と大きな音を立てて袋二つがゴミ置き場に放り込まれる。
近隣の住民を起こしてしまっただろうか。そんな不安が一瞬安室の頭をかすめる程度には大きな音だった。
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