大凶ヒーロー、水も滴る (1/1)
神様あんたはどれだけ俺のことが嫌いなんだ。
ぐっしょりと濡れた靴下の気色の悪さに舌打ちをする。
「――トラブルでも起きたか」
静かに座っていたスコッチがこちらに視線を寄越すことなく呟く。三十分ぶりに聞いたな、この爽やかイケメンボイス。
そう、俺はまだ盗んだカローラの中に居る。なのに全身ずぶ濡れなのだ。
最初ん?なんか湿ってる?くらいだったのに、いつの間にか水が滴り落ちるほどぐっしょり神崎君になっていた。
しかもこれ真水じゃない、塩水だ。しょっぱいしベトベトする。
気のせいじゃなければ、耳元で海鳴りがしていた。
最後の駄目押しのように、今指先が少し透けた。
どう考えても帰還秒読みですありがとうございます。赤井さんがいる倉庫はもう目と鼻の先だってのにさ!
クライマックスが見れないとか本当に泣きたい。
しかもこれ、どう考えても高波にさらわれたままじゃん、俺。
「前方、大きく"3"って書いてある倉庫……見えるか?」
「……お前たちの言う『殺害現場』とやらか」
「そう。そこにFBIの赤井秀一って言う潜入捜査官がいる」
「FBI?なんだ、お前もう指名手配されて――!?」
突然何を言い出すんだ、みたいな感じでようやくこっちを見たスコッチが絶句する。
そりゃそうだ。
普通に地上を走っていただけなのに車内がびしょびしょなんだから。
「な、え……え!?」
「悪いけど、自力で行けるか?」
「それは、できる……けど……」
「あんたは俺に殺されて、死んだことになるらしいから。まあ、詳しいことは赤井秀一に保護されてから決めな」
「保護?まさか本当に俺を逃がすつもりで……」
「ネズミさんは疑り深いことで。まあ、俺が原作うんぬんの話を打ち明ければ早かったのかもしれないけど」
でもサイコと思われるのは嫌です。
電波と思われるのも嫌です……!
「お前はFBIなのか……いや、だが」
次から次へと滴り落ちていく海水に動揺を隠せないスコッチ。その顔色は少し青白い。
わかる、軽くホラーだよな。
俺のまわりだけ集中豪雨に襲われたみたいになっているのだから。
口の中が急にしょっぱくなって、慌てて吐き出す。
ぺっ、と大量の塩水が車内にこぼれた。現実世界の俺、おぼれてませんかこれ。
「あー……関係ない関係ない。赤井秀一がおにーさんを助けようとしてたってだけ。」
「その赤井秀一って……」
「いいから、とっとと行ってくれる?ってか、悪いけどドアから今すぐ飛び出して」
「え?」
「さっきからハンドルが利かない」
倉庫に向かおうとしているのに、ハンドルが勝手に右に持って行かれる。アクセルもブレーキも踏んでいないのに徐々にメーターも加速し始めている。
マジでホラーじゃねぇか。
「な……!」
目を白黒させているスコッチ君。これじゃあラチが開かない。
俺はたぶん元の世界に戻るだけだが、スコッチは違う。車内にこのまま残していたら非常にまずいだろう。一緒にトリップされても養えないし、トリップしなかったら暴走車に一人取り残されることになる。
ハンドルを完全に諦めて、俺は助手席側のドアを開けてやった。
メーターが急に加速する。時速40kmから60kmに跳ね上がった。
「おら、飛び降りろ!!」
じゃなきゃ突き落とす。
俺の本気を感じたのか、事態の異常性に危機本能が働いたのか、スコッチは素直にドアの外に乗り出した。
一瞬、小さく息を飲む。メーターがさらに加速。65km。空けっぱのドアを俺が抑えてなければバッタンバッタンと風に煽られていただろう。
人間が飛び降りていい速度じゃない。
でも行ってもらわなきゃ困る。
「…………!」
逡巡するスコッチ。
時速70km。
立ち並ぶ倉庫街が一瞬途切れて、芝生に包まれた土手が見えた。
「行け!!」
時速85km。
スコッチがドアから芝生へと飛び出す。
ゴロゴロと転がっていく姿があっという間に通り過ぎていった。
怪我がなければいいんだけど。さすがにこの速度でそれは無理か。
バクバクとうるさい心臓を撫でながら、フロントガラスを見る。見えない手に操作されるハンドルは一直線に川の中へと向かっているようだった。
時速100km。
車内はびしょぬれどころか、水浸しの雨漏り状態だ。海の中でもないのに天井や床から滝のように水が流れ込み、轟音を立てる。
時速130km。
シートにしがみついていなければ押し流されてしまいそうだ。
時速160km。
フロントガラス一面に水が広がる。もう少しで着水だ。
浮遊感とともに車内全体の水が浮き上がり、俺の顔にぶつかる。
時速180――メーターが振り切れる。
(……これ、帰れるんだよな?)
ぽつりと抱いた疑念は派手な着水音にかき消された。
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