星は降らずとも (1/1)
カラン。
ポアロのドアベルが鳴った。
さっきOPENの看板を出してきたばかりなのに、と急いで厨房を飛び出す。
こんな開店直後から客が来るなんて珍しい。
誰もいないうちに新しいサンドイッチのレシピを試してみたかったのだが、仕方ない。
入り口で一人の男が傘を畳んでいる。
待ち合わせではなく、ふらりと目についた喫茶店に立ち寄ったかのような風だった。
「一人です」
確認する前に客が答えた。
夏の盛りが近づく、7月のはじめだというのに男は襟の長い革ジャンで首もとをすっぽり覆っている。
それでも暑苦しさを感じないのは日射が本格する前の午前の時間帯であり、さらに言えば今日のひどい曇り模様に太陽光が遮られてしまっているからだろう。
ポアロの広い窓の向こうはとんだどしゃぶりだ。
天気予報によれば今日の夜には落ち着くらしいが、今のところ空が落ち着く気配はない。
「よかったら、どうぞ」
席についた客にやや大判のタオルを差し出す。
雨滴がしっとりと彼の髪や肩を濡らしていた。
「ああ……ありがとうございます」
客がしっけた髪を拭いている間に水とおしぼりを並べる。
「この雨で足止めですか?」
つい声をかけてしまってから我に返る。
作りかけのサンドイッチが厨房に起きっぱなしだ。片付けるためにすぐ戻るつもりだったと言うのに、なぜだろうか。
気が付けば革ジャンの男と目を合わせていた。
黄色いサングラスをかけているのはファッションか、それとも光に弱い体質なのか。
日焼けあとのない白い肌を見ていると、後者でも頷けた。
急に話しかけて驚かせてしまっただろうか。
ふと首をもたげた不安に反して、男はあっさりと首をふってみせた。
「いえ…………」
男の視線が流れるように店の入り口へと向かう。
短冊の花を散らした小振りの笹がそこに生けてあった。
「……………」
「短冊がどうかしました?」
「窓から見えて、気になったんです。そういえば最近七夕祝ってないな、って」
しみじみと男が呟く。
自由人のようにも見えるが、案外忙しいのかもしれない。
「お忙しいんですね」
「少し前までは。急に雇い主が倒れてしまって……今は、まあ、様子見でしばらく俺も休職中です」
「へえ……なんのお仕事なんですか?」
「裏方ですよ。秘書みたいな。事務とか、情報収集とか、そういうのです」
「なるほど……」
「急にやることがなくなったから、少し……今は時間をもてあましていて。それで、とりあえず喫茶店にふらっと……」
「いいですね。たまにはのんびりするのも。よかったら、短冊書いていってくださいね」
「ええ……どうせですし……」
そう言いながら客はコーヒーを注文した。
注文を伝票に書きこんで、そしてふと作りかけのサンドイッチのことを思い出す。この時期は食べ物を外に放置しているとあっという間に虫が沸く。
心持ちの急ぎ足で厨房に戻った。
ハムサンドを完成させ、水回りを片しているとすぐにホットコーヒーの芳醇な匂いが調理場に広がった。
丹誠にチャコールブラックの液体をカップに注ぐ。
ハムサンドを一切れトレイに載せてしまったのはほんの気まぐれだ。
「どうぞ、サービスです」
「あ……いいんですか?」
「いま、新しいレシピを開発中でして。よかったら、感想を聞かせてください。あ、他のお客さんには秘密ですよ?」
「そうか。ラッキー、と思っておこうかな」
我ながらすらすらと口実が飛び出るものだと思う。
これも一種の職業病だろうか。
サービスをしてしまったのは、この客が気になったからだ。
彼との会話は、なんというか、そう。『しっくりとくる』。
当たり障りない受け答えだ。
ただの世間話にすぎないとわかっているにも関わらず、気分が少し高揚する。
人知れず待っていた正解を思いがけずに言い当てられてしまったかのようだった。
好ましい会話の『呼吸』。
他愛ない言葉の交わしあいになぜだか居心地のよさを感じた。
「料理、こだわるんですね」
「えっ?」
急にまさしく正解を言い当てられて、驚いてしまう。
「当たってた?」
「え、ええ……たしかに、こだわる方ですけど……」
「ははっ、やっぱり」
見ていると、なんだかくすぐったくなるような笑顔。
こちらが呆気に取られているのに気付いた男は申し訳なさそうに眉尻を下げた。
しかし口元はうっすらと笑んだままだ。
「ああ、すみません。なんだか、知り合いに似てて。変わらない……同じだな、って、つい」
「驚きましたよ。そんなに僕とその知り合い、似てます?」
「そっくりですよ。勘ですが」
「勘なら仕方ありませんね」
「あまり当たったことないんだがな……俺の勘」
「じゃあ今回は偶然ですね」
「そうかも」
そう言いつつも、彼のサングラスの奥では確信の光が揺らめいていた。
客は長居はしなかった。
30分もいなかっただろう。
ずっと客を監視しているわけにもいかないので、その間何をしていたのかはわからない。たまにちらりと視界の端で様子を伺えば、ぼんやりと窓の外の雨を眺めているようだった。
時間をもてあましている。
やはり、そんな印象だった。
「あ」
勘定を済ませ、傘を手に取った男が急に思い出したように振り向いた。
「ハムサンド、美味しかったよ」
素っ気ない感想ですら頭の片隅が予測していたようだった。
感想ってそういうのじゃあないんだけど、しかたないなあ。
またポアロで一人きりになってしまったから、緩んだこの口元をみる者は誰もいない。
梓さんは今日はお休みだ。
オーナーと神崎は午後から来る。
この雨じゃあ、店のベルを鳴らしにくる客もそうそう居ないだろう。
こんなのんびりとした朝もたまには悪くない。
自分用のコーヒーでも淹れようと厨房に足を向ける。
その寸でで、入り口を振り返った。
そう言えば、あの客が会計以外で一度だけ席を立ったところを見た。
彼はどんな願いを七夕の星に願ったのだろうか。
重そうに笹からぶらさがる短冊のどれが彼の書いたものなのかはわからない。わかっているのに目が色とりどりの色紙を追ってしまう。
いつの間にこんなに願いが吊り下がっていたのだろう。
コナン、蘭、園子……世良、沖矢……。
他にも見覚えのある名前がずらりと並んでいる。
彼ららしいお願い事に口元がゆるむ。
真ん中らへんには榎本、安室、神崎の名がいびつな横並びでぶら下がっている。
神崎折。
色々と気になる男ではあるが、まあ、いいやつではあると思う。空気が読めないのか、あえて読んでいないのか今一つわからないところが主にキズ。ジェネレーションギャップめいたものを感じるあの独特な会話のテンポにも随分と慣れた。
水に溺れたくないと真顔で告げられたときは本気なのかふざけているのか読み損ねたものだが。
ふと、名前のない短冊が目についた。
神崎の書いた短冊の隣にちょこんと揺れるそれ。
『神崎の大凶がなおりますように』
あの小生意気な後輩の知り合いが書いたのだろうか。
大凶、と聞いて納得してしまう自分を残念に思う。まだ何かトリックがあるはずだと口では主張しているものの、いい加減、あの間の悪さと引きの悪さには生まれついてのものである以外の答えが思い付かなくなってきた。
大凶。
箱のなかからたった一枚しかない札を引き続ける豪運。しかし、その一枚は決して降ってわいたような幸運ではない。平々凡々と生きているならば決して巡り会うことのない類いの不運だ。
言い得て妙に、神崎の星の巡り合わせを表している。
大凶がなおりますように、なんて微笑ましい願いだった。
誰が書いたものかと思索を巡らせれば、沸き浮かぶようにあの長襟の革ジャンを身につけた男の姿が脳裏をよぎる。
「……そんなはずないか」
それならきっとそう言ったはずだ。
あえて口をつぐんでいたなら、こんな短冊は書かないはずだ。
神崎に関してのことだ。
常ならば秘め事の気配に疑念の眼差しを向けたことだろう。
だが今は。今だけはなんでもいいと思った。
何度見たって、なぜだか先ほどの客を思い起こさせる願い事を眺めながら自らもペンに手を伸ばす。
自分の願い事はもう書いた。
だが、そう言えば、ろくでもない悪戯を仕掛けようとしていたバカがいたなと思い起こす。
これくらいの茶目っけは『安室透』として許されるだろう。
短く願いを書き込み、己のものではない名前を書き込む。
まだインクの乾かない短冊を笹に結わえれば、あからさまに筆跡が違う二つの短冊が『神崎』と筆打たれて並んだ。
バレるための嘘。
これも一つのジョークの形だ。
『事件に巻き込まれませんように 神崎』
つつがなく過ごせるのは、とても難しく、そして尊いことだ。
あの後輩に言い聞かせるように揺れる短冊をつつき、厨房に戻った。
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