沖矢昴の嗜みその1 (1/1)
原作ネタバレ注意
特殊設定故に夢主の名前変換なし
僕という存在は随分とややこしい。
そもそも現在『トリップ』という現象に襲われている時点で相当にややこしく、僕が『トリップしている』というこの事実を正しく認識している時点で更にややこしい。
まずは結論だけ述べてしまおう。
僕は東京大学院工学部に所属する27歳沖矢昴だ。
たとえば赤井秀一を隠蔽するために描かれたフィクションではない。正真正銘の『沖矢昴』として僕はこの27年間を過ごしてきた。
まずは一つ目の謎を紐解こう。
僕は今『トリップ』と呼ばれる現象に見舞われている。己が生まれ育ってきた世界と異なる世界に何らかの超自然的な原因で転移してしまうことを『トリップ』と呼ぶ。大抵トリップする先はファンタジーチックな剣と魔法の世界だと相場は決まっているが、今回のケースは少々異なる。僕は自身の世界と良く似たパラレルワールドに転移してしまったようだ。
マジックが飛び交う代わりにふんだんな科学のトリックが仕込まれたこの世界。国道の上をホンダやニッサンが行き交い、空は剥き出しの電線でこまぎりに囲まれている。
見慣れた日常景色に取り囲まれながらもこの町が別世界だと僕が判断した基準は二つ。
一つは非日常的な転移手段のためだ。今日、4月1日の朝。僕は住み慣れたアパートで身支度をしていた。歯を磨き終わり鞄とコートを抱えた状態で玄関を出れば、一件の喫茶店が目の前に建っていた。傍らにはポアロと書かれた看板がある。
背後を振り返ればくぐり抜けてきたはずのドアがない。そもそも、たとえそこにドアがあったところで歩道と喫茶店の間に敷居を構える趣味など僕にはない。
そして二つ目の基準はこの町の名前だ。喫茶店ポアロからそう遠くない電柱には『米花町』の文字が貼り付けられている。27年間東京で暮らしてきた僕でさえも聞いたことのない町名だった。
聞いたこともない町が目の前にあるアパートに僕がずっと住み続けていたのでなければこれは確かな異常事態だ。この時点ですでに同一世界における空間転移は確実に発生している。加えて、僕は米花町と言う名の町が己の世界に存在していないことに対する確固たる証拠を得ていた。
その証拠こそがそのまま二つ目の謎の解となる。二つ目の謎、すなわちアニメや漫画をはじめとするポップカルチャーに無縁である僕がなぜ『トリップ』という概念を理解しているか(僕がシャーロキアンフリークであることは認めるが、シャーロキアンとポップカルチャーフリークは似て非なる者だ)。
その答えは僕が沖矢昴として生まれる前までに遡る。非論理的(イロジカル)な解答で申し訳ないが、僕の持ち合わせている真実というものはそれだけだ。
僕には生まれる前の記憶がある。前世の記憶と言った方が馴染みある表現になるだろうか。前世の僕は米花町を舞台にした物語(フィクション)と親しみがあった。タイトルは忘れてしまったが、確か主人公は正体不明の組織に毒薬を飲まされ幼児化してしまった頭脳明晰な青年探偵だった。名前は工藤新一。ホームズのような灰色の頭脳を持った彼は江戸川コナンと自らを名付け、己を貶めた犯人を見つけ出さんとあらゆる活躍をする。
江戸川コナンとして活動する中で、小さなホームズは様々な人間に出会う。敵、味方、あるいはその狭間の灰色(グレー)。そして沖矢昴もまたそんな敵とも味方ともつかない登場人物として描かれる者の一人だ。
江戸川コナンの敵としてコードネーム『バーボン』と呼ばれる者が登場する。悪の組織の一員でありながらも探偵のような側面も持つバーボンの正体は謎に包まれている。バーボンである疑いをかけられた人物は三人。
江戸川コナンの居候先である毛利探偵事務所に弟子として突然押し掛けてきた安室透。
工藤新一が所属する帝丹高校に同時期に転校してきた高校生探偵世良真純。
そしてやはり上記二人と同じ時期に工藤新一が暮らしていた工藤邸に、他ならぬ江戸川コナンに進められて入居した大学院生沖矢昴。
時に江戸川コナンの味方として、時に不穏な人物として描かれた沖矢昴の正体を実を言えば僕は知らない。彼ら三人が出揃った辺りで江戸川コナンに関する記憶は途切れてしまっているからだ。何らかの理由により続きを読むことができなくなったのだろう。それ故、僕にはバーボンの正体おろか沖矢昴の正体すらも知り得ない。
推理はしていたものの、答え合わせは許されないまま僕は沖矢昴として生まれ変わった。細がちの目と桃色がかったネコ毛の茶髪はかつて見たフィクションの登場人物に良く似ていた。
自らがフィクションの世界にトリップしたという信じがたい事実に確固たる証拠な欲しくて僕はあらゆる手を尽くした。そして結果的に僕は工藤邸に住むことになる沖矢昴とは別人であると結論付けた。結論付けていた。
そう、それが僕の持っているここが別世界だと言う確固たる証拠。僕はかつて、己の世界で『米花町』を探し求めたが一度たりとも見付けることはできなかったのだ。
今日、この日が来るまでは。
ここまでが現状の整理だ。
さて、以上を踏まえた上で最適解を導きだすとしよう。
「昴さん、さっきからずっとここに座ってるけどどうしたの?」
「………………驚いたな」
はじめまして、江戸川コナン君。
僕は確かに沖矢昴だけど君の知る沖矢昴ではないんだよ。
僕の袖を引く少年の方へと屈ませて、何を言うべきか迷う。
僕とこの子は初対面だ。
だからここで初対面だといきなり言い聞かせるのは間違い(イレレヴァント)。
この子は頭が良く回るから、きっとすぐに解答にたどり着くだろう。適切なヒントこそが正解(レレヴァント)だ。
「僕の名前は確かに昴だけど、君はそれをどこで知ったんだい?」
「…………えっ?」
ぎょっと目を見開く少年の頭の中にはどんな計算式が今ぐるぐると回っているのだろう。
想像を越えていくからこそ、僕自身の及ばなさが愉快になる。未知の領域に触れられないならば、パズルみたいに解いてしまおうか。
まるで獲物の四肢を撃ち抜くように正確に追い詰めよう。
「お、沖矢昴さん……?」
「おや、本当に僕の名前を知っている…………どこかで会ったかな?」
「ちょ、ちょっとこっち来て!」
慌てはじめた小さな少年に手を引かれて公園を出る。滑り出し(プロローグ)としては悪くない出会いなのではないだろうか。
そう、これは新しくも懐かしいこの世界で紡がれる僕の小さな物語(スピンオフ)。
沖矢昴として27年生きてきた僕が実は沖矢昴ではなかったことに驚き、そしてただの沖矢昴であることを解き明かす物語だ。
←前のページへ / 次のページへ→
もくじ